2006.03.18 茂原周辺の地下施設調査(茂原市/大網白里町)



茂原市長尾にやってきた。

ここは思い返せば10年以上も前、黒魔さんと共に戦争遺跡を調査するきっかけとなった思い出深いところである。

今回は、茂原市周辺に点在する戦争遺跡をご案内する。わざわざ遠方から菊水さん、trypodさんがかけつけてくれた。



まずは、豊田小学校近くにある茂原海軍航空隊の地下壕へ向かう。掘削経緯は明らかになっていないが、「兵舎」「地下司令部」との噂が出ている。

この地下壕へ向かう途中に写真のような素掘トンネルを通るのだが、これも海軍が構築したものなのであろうか?

後の調査で、戦前からこのトンネルは存在していたことがわかった。失念したが、ちゃんとトンネル名もある。



道から反れて獣道を入っていくと地下壕の入口がある。林の中にあり、昼間でも殆ど日が当たらない。

以前訪れた時とあまり変わっていないのでホッとした。何せ、ここが戦争遺跡調査第1号だからね!

早速準備を整えて突入する。



内部は高さ約2.5メートル、幅約2メートルの坑道が標準で、写真のような部屋と思われる空間が10ヶ所存在する。ツルハシのみで掘削されているようで丁寧に構築されている。

なるほど、「兵舎」「地下司令部」の噂はどちらも肯けるぞ。



さらに奥へ進んでいくと、山の頂上へ上がる階段やスロープ、碍子などが確認できる。

資料によると、この壕の掘削には朝鮮人が関連しており、掘削時に出たズリ(土屑)は茂原海軍飛行場の滑走路整地用として使われたという。



この地下壕は、総延長319.5メートル。

指定戦争遺跡として保存されているわけではないのだが、比較的良好な状態を保ち続けている。今後、千葉県の戦争遺跡オフ会でご案内をする地下壕の1つに入れていきたい。



続いて、地下壕に隣接して構築されている弾薬庫と思われる地下施設へご案内する。

当時の人達の証言によると、地下壕の山頂に機銃砲台が構築されていたといわれているのだが、関連した弾薬庫である可能性が非常に高い。更なる調査を継続する必要がある。



弾薬庫と思われる地下施設の内部。幅4メートル、高さ5.5メートルと大きい。

当時は全面にコンクリートを捲いていたようだが、殆ど剥がれ落ちてしまっている状態。

天井には直径約1メートルの丸穴が開いており、2階部分の坑道に連絡している。確証はないが、揚弾口の可能性がある。



奥の連絡通路を通り、隣の坑道へ。

幅3メートル、高さ2.5メートルで、台座と思われるコンクリート製の遺構が床の両側に残っている。発電機の台座であろうか?



内部調査の結果、ヨの字型を描いた、総延長84.5メートルの坑道が広がっていることがわかった。

後日、この山の頂上に登って機銃砲台の話が本当であるか確認をする予定。



続いて隣の集落、腰当地区へ。ここにも茂原海軍航空隊の地下壕が残存している。掘削経緯は定かではないが、地下病院として使用されたという話がある。



地下壕の入口。

高さ2.5メートル、幅2メートルである。埋もれかかっているが、労せず入坑可能。

うっ、非常に臭いぞ。内部で動物が生息している可能性が非常に高い。これは警戒せねば・・・



匂いの正体は、凄まじい数の蝙蝠の大群による堆積した糞の臭いであった。これほどの数を今まで見たことがない。

ここに写っているのは、ほんのひとかたまり。坑道の天井にびっしり!



蝙蝠アーチを抜け、更に奥へ進んでいく。ツルハシで丁寧に掘削されているのがわかる。

坑道の岐路は少ないものの、坑道1つあたりの延長がかなりある。内部は碍子や木片を確認することが出来る。



最深部にあたる坑道。このあたりは起伏があり、上ったり下りたりの連続だ。

正面の坑口は、民家の庭先に位置しており、物置代わりに使われている。



地下壕の総延長は612メートル。長尾の地下壕の2倍の規模を誇る。

それにしても、蝙蝠の数には驚いたな。別に害はないのだが、非常に不気味だった。




国道126号沿いのファミレスで遅い昼食を摂った後は、外房線を跨ぎ新小轡地区へ。

飛行機を空襲から守るために構築された掩体壕が点在しているのだ。



まずは、茂原市で保存されている掩体壕へ。茂原海軍航空隊の掩体壕は4種類の形があるのだが、その中では最大を誇る。

全国にも沢山の掩体壕が残存している中で、茂原海軍航空隊が一番残存しており、11基が確認できている。



保存されている掩体壕の裏手に、もう1基残存している。

開隊当初は、20基前後の掩体壕を構築したようだが、現在は開発により破壊されたもの、民家の車庫や倉庫に転用されたりと様々な掩体壕人生を歩んでいらっしゃる。



県道を挟み、畑のど真ん中に建つ掩体壕。こちらは農具入れに活用されている。

現在はコンクリートがむき出しになっているが、当初は上部に草木が植えられ上空から判らない様な施しをしていた。しかし、一目瞭然だったという。



本当は市内に残る掩体壕11基全ての所在を把握しているのだが、時間の関係で次の場所へ。後日全てをご案内したいと思う。

次は大網白里町永田に北上する。永田周辺は、陸軍により抵抗拠点陣地が沢山構築されたといわれているが詳細は不明のままだ。そんな中、trypodさんのご友人は、陣地の掘削に携わっていたとの話を聞き、s.hshnさんが懸命にリサーチして遂に発見したのだ。



現地に到着。ややっ、雨が降ってきたぞ。ちょっとまずいか??

入口は山の中腹に構築されており、土砂で埋もれかかっている。



高さ1.7メートル、幅1メートルの坑道が続く。掘削途中で敗戦を迎えたようで、最深部は銃眼を構築する予定だったのか、部屋のような広場になっている。

天井には虫がビッシリ。申し訳ないがここには長居したくないので足早に退散。ちなみに総延長は32メートルであった。



次は日立航空機の地下工場へと足を運んだが、雨がひどいので保存されている入口を見て、今回は調査を打ち切った。

大網白里町の積極的な開発により、地下工場の殆どを消失してしまった日立航空機大網地下軍需工場。次回、訪れる時は完全に消滅しているかもしれない・・・

ともあれ、遠方よりお越しいただいた菊水さん・trypodさん、お疲れ様でした。これに懲りず、千葉県にも来て下させぇ(^_^)

【終】



 









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