2006.10.21 横浜・鎌倉の抵抗拠点陣地調査(横浜市/鎌倉市) |
JR根岸線の本郷台駅にやってきた。今回は横須賀海軍鎮守府特別陸戦隊と陸軍第一四〇師団の抵抗拠点陣地を中心に遺構調査を行っていく。 1年前、大船第一海軍燃料廠の遺構調査でこの駅を訪れたのだが、風景がかなり変わっている。駅前にも関連遺構が沢山残っていたのだが、マンション建設でことごとく消滅しているようだ。 |
まずは、歩いて公田町へ。ここには銃眼があるのだが、教導さんが知らないということなのでご案内する。 公田町を通る環状4号は、かつての海軍が軍用道路として整備したものだが終戦間際は米軍が上陸してこの道路を使用し、帝都に攻め入るという予想があった。そのため海軍特別陸戦隊は、昭和20年初頭から数箇所に渡りこの道路に沿って抵抗拠点陣地を構築し迎撃する作戦に出るが、敗戦を迎えてしまった。 |
銃眼に到着。駐車場と資材置場の敷地内にあり、ここに繋がる別の開口部は全て封鎖されている。銃眼の向きはしっかりと環状4号を捉えている。 銃眼の幅は50センチで中に入れないこともないが、水が溜まり深く水没している。 |
銃眼内部に顔と手を突っ込み撮影してみた。付近は竹が散乱しており、突き当たり手前に左右へ延びる坑道が確認できる。 坑道下部が黒ずんでいるのは、以前の水没時の水位がその位置まであった証拠。 |
続いて、第2の銃眼へ。公田町から距離があるので、金沢八景行きのバスで移動する。紅葉橋で下車して歩くこと数分、人気のない林が現れる。 |
銃眼部分。土砂でかなりの高さまで埋め戻されており、簡単には発見できない感じである。それにしても教導さん、よく見つけたな(驚) 銃眼の大きさは、公田町と同じものであるが、コンクリートの質はこちらの方がよい。内部は銃眼部分まで深く水没しており、銃眼部分から水が溢れ出ている状態で内部はよく確認できなかった。 |
今度は鎌倉へ向かう。大船行きのバスで移動するため、停留所に戻りバスを待つが10分くらい間があるので、バス停横のマックに入り飲み物を購入。 年甲斐もなく、マックシェイクを片手に神奈中バスを待つ。 |
今度は陸軍第一四〇師団関連の抵抗拠点陣地を中心に見ていく。鎌倉女子大前で降車し、歩くこと10分。県道沿いに防火水槽として活用している壕がある。詳細は不明であるが、同師団が構築した大長寺裏手の洞窟陣地に隣接していることもあり、関連していたものであると推測する。 |
大長寺裏手にある壕に到着。不法投棄されたゴミが坑道の高さを狭めているが、入れないことはない。本日初の内部調査である。アッハー(^_^.) |
ゴミの山を乗り越え、奥へ進んでいくと虫の大群!坑道はクランクしながら奥へ続いているが、この虫の数だとこの先は行き止まりだと推測できる。苦労して入ったのにここで引き下がるのも抵抗があるので、奥まで進んでみることに。 |
坑道は3回クランクして行き止っていた。坑道は幅1メートル、高さ1.8メートルで、最深部は碍子やトロッコ枕木の跡がくっきりと残っている。また側溝が設けられており、排水設備も整っていたようだ。 |
内部調査の結果、107メートルの坑道を確認することが出来た。天井には虫がビッシリ張り付いており、光を当てると活発に動き今にも落ちてきそうだ・・・。あまりいいものではないので、早々に快特にて退散する。 |
鎌倉街道を更に南下して歩いて行くと、県道沿いの民家の奥に大きな壕が開口している。早速内部へ入ってみることに。 坑道の幅は3メートル、高さ2.5メートルでほぼT字形に構築されている。全ての方向に開口部があったものと思われるが、土砂で埋め戻されている。 |
総延長68メートルの坑道を確認することが出来た。掘削経緯は不明であるが、壕の掘削方法や掘削目的などを考えると、陸軍第一四〇師団が構築したものではなさそうである。海軍陸戦隊のものであろうか? |
今度は同師団が構築したとされる退避用の防空壕へ。幅80センチ、高さ1.7メートルと大変狭いが、きれいに構築されている。 写真に見える2つの坑口は、奥でU字形に連結されており、棲息部と思われる小部屋のような空間が確認できる。総延長は17.8メートルで非常に小規模だ。 |
防空壕といっても民間と軍隊と2種類による構築があるので、相対的に見て区別できるものではないと思っていた。なので、この壕も軍隊が掘ったという確証が欲しかったのだが、ここで教導さんが教示してくれた。 軍隊が構築する防空壕の場合、軍の規約に則った条件を必ず満たさなければならない。条件を抜粋すると、 1.入口は必ず2つを設け、内部で 結合させる。 2.坑道とは別に棲息部を設ける。 3.入口よりゆるい傾斜をつける。 なるほど、この壕は全て条件を満たしているぞ。 |
調査は続く。今度は大船駅を経由して西側の岡本地区へ向かって歩く。教導さん曰く、この周辺に格納庫として使われたような壕が複数あると。早速現場検証をしてみたい。 |
岡本地区地下壕ショーのはじまりー♪ エントリーNO.1 名前:1丁目8番さん。 スリーサイズ:幅4.高3.延15 所見:物資貯蔵または格納庫として 使用されたと思われる。 |
エントリーNO.2 名前:2丁目6番さん。 スリーサイズ:幅3.高3.延40 所見:コンクリートで部分封鎖。 周辺に入口があったと思われ る窪みが複数残る。地下工場 として構築されたか?スリー サイズの延長は推定値。 |
エントリーNO.3 名前:2丁目7番さん。 スリーサイズ:幅3.高3.延40 所見:落石防止ネットで封鎖。 目を凝らすと、左右に岐路が ありそうだ。スリーサイズの 延長は推定値。 |
岡本地区地下壕ショー終了。 壕の大きさから見ると、陣地というよりも生産・貯蔵系の用途として構築された可能性が高そうだ。 もしかしたら、横須賀海軍工廠深沢工場が梶原にあったことから関連する壕かもしれない。 この後は、大船駅付近のすかいらーくで遅い昼食を摂る。 |
すかいらーくでは食べながら教導さんとの旧軍関連の強烈なトークを交わした後は、湘南モノレールで西鎌倉へ。モノレールのAR−2コンプレッサーがたまらなく良かった(^_^) いけねえ、ここはそのようなことを話す場ではなかった・・・ |
前にも訪れたことがある駅前の銃眼。入口は開発により消滅、内部調査をするには銃眼から入るしか手立てがないのだが、崖上3メートルのところに位置しているために簡単にはいかない。 すると、教導さんが銃眼めがけて上って行ってしまった!しばらくして、銃眼から声が。 「ナウスラさーん、来ないと後悔しますよ!」 戦争遺跡を可能な限りこの目で見ることを信条にしていることもあり、教導さんの後に続き銃眼を目指す。 |
バランスを取りながら幅40センチ、高さ30センチの銃眼より突入成功!多分、内部調査は我々が最初で最後であろう・・・。 |
内部は、銃眼部分が高さ2.5メートル、幅2メートルで坑道部分が幅1メートル、高さ1.8メートルである。潜入手段がないためか、荒らされておらず良好な形で残っている。奥はクランクして開口部があったものと思われるが、宅地開発で埋められており深く水没していた。 調査の結果、総延長は43メートルであることがわかった。 |
銃眼は現在の県道腰越大船線に向けられている。 この洞窟陣地も陸軍第一四〇師団によるもので、腰越周辺から上陸してきた米軍が進軍するルートが現在の県道と予想されていたために構築されたようだ。 |
本日の調査終了。本日の調査は比較的小規模の地下施設ばかりと推測していたが、以外に大きかった。特に西鎌倉の銃眼内部調査は非常に価値のあるものであった。この後、教導さんと健闘を讃え合い大船方面へ帰還した。 【終】 |